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但馬“豊岡”豊岡建築復興群 豊岡の歴史・文化・偉人を学ぶ(2丁目タイムズ 2025.12月号)

2025.12.22

12月12日(金)、朝の8時に三宮を出発し、豊岡・城崎への研修旅行がありました。豊岡には明治維新直後の1871年から1876年迄、豊岡県が成立していた歴史があります。そんな豊岡・城崎では今から100年前の1925年に北但大震災があり、その火災により豊岡では町の市街地の約7割が焼失し、城崎では実に272名(人口比で8.0 %)という多数の死者が生じました。犠牲者の大半は、炊事中に家屋の倒壊に巻き込まれ脱出できないまま焼死した女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」とまで言われています。地震後、豊岡や城崎では、道路幅拡大や耐火建築の促進など、地震・火事に強い町を目指して震災復興再開発事業が成し遂げられました。

うろこ状の外壁

例えば「うろこの家」と呼ばれる緑青の味わい深い建物がありますが、この建物は、1920年代頃の建物で防火対策として外壁にうろこ状に銅板が張られています。それまでの建物は木造が大部分を占めていたこともあり、防火建築が最重要の課題でした。北但大震災は、不幸な出来事ではありましたが、教訓とともに魅力的な復興建築の町並みを現在に伝えています。「地域おこし協力隊」のハミルトン 塁さんから特別に街歩きをしながら、そういった建築物の説明を受けました。豊岡の市街地周辺には北但大震災の被災後に建てられた昭和初期の建物が数多く残っており豊岡復興建築群として保存活用されています。震災後に起きた火災を教訓に、防火建築の促進を目的にした補助制度が創設された結果、このような洋風の建物が建てられたのだそうです。

お昼休憩を挟んで、城崎温泉の方に向かい、城崎町に生まれ、後に関西電力初代社長になった太田垣士郎氏の資料館を訪れました。太田垣氏は1951年(昭和26年)に電力不足が深刻だった時代に黒部ダム建設の指揮を執りましたが、その総工費は513億円、約1万人の労働力を投入し、171名の尊い犠牲を伴い、その完成に至りました。太田垣氏は黒部ダム完成の翌年、1964年に逝去されましたが、亡くなるまでずっと171名の御霊に想いを馳せておられたそうです。ちなみに太田垣氏の残した名言の一つに「経営者が10割の自信を持って取り掛かる事業、そんなものは仕事の内に入らない。7割成功の見通しがあったら、勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない」があり、この信念があったればこそ、黒部ダムが出来たに違いありません。

もう一人の偉人は豊岡市出石町に生まれた齋藤隆夫氏です。1912年(大正元年)に衆議院議員に初当選した政治家ですが、1936年(昭和11年)の2・26事件後の帝国議会で「粛軍演説」を行い、軍部の政治介入を厳しく批判しました。さらに1940年(昭和15年)には日中戦争における政府の対応を糾弾する「反軍演説」を行い、衆議院を除名されました。あの戦争へと突き進んでいた時代に、想像できない程の圧力の中、軍部の指導者と当時の近衛内閣を批判したのです。その為、国民からの信頼は絶大で、1942年(所和17年)の翼賛選挙では非推薦ながらトップ当選を果たし、議員に復帰しました。その斎藤隆夫記念館が豊岡にあり訪ねました。齋藤隆夫氏の兄のひ孫にあたる齋藤義規さんから説明を受けました。常に自分の信念を貫く政治家だった齋藤隆夫氏は「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて国民的犠牲をなおざりにし、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼす事は出来ない」と演説したそうです。一部の演説の内容は議事録から削除されましたが、前石破総理が復活させるように指示したとの報道もあります。それぐらいの価値がこの「反軍演説」にはあります。今後、今の複雑な世界情勢がさらにその危機感を強めるかもしれません。そうなった時に政治家は勿論のこと、国民一人一人が勇気を持って声を上げなければならないのだと感じながら、すっかり暗くなった中を神戸に帰りました。

太田垣士郎氏
齋藤隆夫氏
齋藤隆夫氏
太田垣士郎氏